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堂々として見えるのは何故か。常日頃考えていたことだが、それは単純に『堂々としているから』だ。その姿を見上げ、ゴンは思った。
胸を張って人を見下ろせばいい。何であれ、形がつまり全てなのだ。その姿の前に、あらゆる存在は見下ろされることから始まる。それはこの俺の身長を以てしても。思わず小さく舌打ちした。チロが微かに視線をくれる気配があった。
そもそも存在しなかった丘だ。地形の変動は続いていたが、俺たちが気付かなかったということがあるだろうか。地図を作りながら移動するべきだったと、今さらながら悔やんだ。
緩やかに隆起した丘の頂に向かって、どす赤い色の層が絨毯のように伸びており、その上には鉄骨や瓦礫が覆い被さっている。皿に盛られた高価なケーキと、それに飾られた飴細工を思わせる形状ではあったが、漂う臭気がそうした連想を打ち消してくる。絶えず何らかの異臭が漂っている廃都の中にあって、この一画は際立っている。チロはずっと襟首に顔を埋め、背を丸めたまま歩いている。
一歩踏み出すごとに、足の裏で音を立てる粘着質の層が、赤い絨毯の正体だった。感触は泥に近い。慎重に歩を進め、複雑に交差した鉄骨の隧道を抜けると、曇天がわずかに投げて寄こす光がその空間を舞台のように見せていた。暗く小さな劇場の、暗く小さな舞台だ。
その真ん中で、男は胸を張って屹立している。こちらに向け手を上げ指を立て、笑顔を見せている。
変人だ、としか形容できない。異変を乗り越え生き残っている者は全員、芸人であると同時に――そして人間である以前に、ある種の変人である。そんな世界で、抜きん出た変人だと。
さして声を張らずとも届く距離になるのを待って、その声は発せられた。
「お二方。春日は、いつでも、腹八分目ですよ」
挑発の筈はないと思考が巡るよりも前に、いかんと思った。しかし加速度では如実に遅れを取る。傍らを小さな躰が凄まじい速度で駆け抜けて行くのを見送るしかない。
春日俊彰は視線をこちらから外すことなく、チロの急襲を食い止めた。巨きさから来る圧倒的な守備範囲の広さを活かし切っている。体軸を一切動かさず、掲げていた左手一本で、砲弾のような勢いで突っ込んでいった頭を鷲掴みにした。
チロは背後の俺を宛にして、敢えて単純極まりない攻め方に出たのだ。後で叱っておかなければとやけに冷静な自分も在ったが、咄嗟にオレンジの背中を掴んで引き戻す。一瞬であれ、完全に膠着した状態を崩さずにいられなかった。
ピンクのベストの胸には僅かな染みがあるものの、別の世界から切り取って貼り付けたような鮮やかなさはあの頃のままだ。しかし、純白だったズボンは、全く逆の様相を呈していた。裾から上に向かって徐々に薄くなっている染みは、足下から吸い上げたられたものだろう。泥のようなこの地面がもっと水分を含んでいたことの証だ。
こちらとて清潔を保っているわけではない。縞の白い部分は二人とも薄汚れ、どれだけ洗っても抜けきることはない。だが春日のそれとは訳が違うと漠然と思った。今の春日を覆っている汚れは、筆舌に尽くしがたいおぞましいもののような気がした。
猛々しくも小賢しい俺の相方が、ここまで不意に苛立つと言うのも、そうした気配からだろう。或いは、焦りだと言い換えることも出来るかも知れない。この丘の噂を聞き足を向け始め、ずっと頭の後ろに貼り付いていたのは紛れもない焦燥感だ。
倒さなければならないという使命感ではない。むしろ接触を回避したいとさえ思っていた。しかし、取って喰われそうだからという恐怖からではない。
何故だ。
春日は笑っている。チロの頭の形の保った左手を、真っ直ぐ前に突き出したままの姿勢で、笑っている。俺はチロの上着を掴んだ手を離せないで居る。
顔の血色、目の光り、撫で付けられた髪にも、疲れを伺い知ることは出来ない。指先に汚れもない。
若返っていると感じた。髪を伸ばしていた頃より若く見える。誰の目から見ても芸に迷っていたあの頃よりも。
三日月型の目を見返して、不意に怖気が走った。
勝てない。
戦力的に敵わないのではない、決してこちらが劣っているわけではない。それでも、俺たち二人では勝てない気がする。いつものようにチロが飛び付き、俺が仕留めれば良い。だが、それが成し得ない気がする。何故だ?
ベストの胸の模様に視線を落としながら、チロごと半歩退いた。あれがどんな模様だったか思い出せない。あんなに身近で見ていた日々があったというのに。
確かねばならないことが山ほどある内、真っ先に訊ねようと口を開きかけた矢先、足下から呻くような声が聞こえた。
「いっそ満腹でいてくれた方が安心できるんすけども」
舞台の奥は再び緩やかに下って、すり鉢状になっている。泥に手を掛けて体を引き上げながら、若林正恭は姿を現した。
大きめの仕立てのスーツが皺と染みだらけであることよりも、その目を見た瞬間に戦慄いた。瞳孔がないようにすら見える、光を湛えていない目だ。俺たち二人を睥睨する眼球の動きすら緩慢だった。咄嗟に、長らく見ていない故郷にあったドブを思い出す。酸素など欠片も含まれていないような、生き物を拒む汚泥。
可愛らしさもあった筈の童顔は、耳から頬にかけて薄汚れていて、むしろ老人のようだ。疲労よりも枯渇という表現の方がしっくりと来る。元から上がっている口角が、一切の張りを失った皮膚を歪め、卑屈な作り笑顔のように見せていた。この狂った世界を這いずるようにして生き延びた人間の有様そのものだ。
その手元を見て気付いた。予想はしていたが、考えないようにしていた事実に気付かされた。
この泥は臓物だと。
片方の持ち手の取れたスーパーのカゴに、汁を滴らせる中味がぎっしりと詰まっている。若林はこちらに背を向け、それを両手で引き上げる。屈み込み、考える風でもなく、中味を一つ一つ掴み上げ、右へ左へ放り投げる。
血の色をした泥に、腐った臓物が叩きつけられる。液体の跳ねる音、大きな蛙が踏み付けられるような音。
掛ける言葉を俺は持たなかった。チロも押し黙ったきり、再び襟の中へ顔を埋めている。
思い出したのはあの惨事だ。
うちの事務所だけでなく、日本の名だたるものまね芸人達にも生存者は大勢居た。彼らは引き寄せられるようにして一箇所に集っていたという。不思議と闘争は発生しなかった。代わりに、数日のうちに一人また一人と消えて行ったらしい。
実際には消えたのではなかったのだと思っている。「似た芸風同志が吸収し合う」という噂、そして集めた証言から推測するに、全員が一つの異形としてまとまってしまったのだ。それは巨大な肉の袋のようだったらしい。遠くからもよく見えたという。尤も、よく見てみようとは思えない代物だっただろう。
それはある日、不意に爆ぜた。
中味は『腫瘍として取り込まれた双子のかたわれ』のようだったと聞いた。目、脳、臓器、骨、あらゆる人体の構成部品がばらばらに、周囲一帯にぶちまけられたという。
噂を聞き駆けつけたが、間に合わなかった。俺たちがそこへ辿り着いたときには、異形の鳥や獣が食い荒らした後だった。
無力感に澱んだ思考を、甲高い声が呼び戻した。
「殺シタノ?」
肩を一回振って、俺の手を背中から引き剥がした。胸に顎を突っ込んだままだが、外飼いの猫のような視線をまっすぐに若林に向けている。
若林はこちらを顧みることもしなかったが、「皆、愛しい仲間だからね」春日の声が朗々と響いた。
「愛しいとか言うな気持ち悪い」語尾はほとんど聞き取れないが、若林は応じた。
「皆さん、春日は誰でもウェルカムですよ」春日は笑っている。
脅威であるという認識に変わりはない。
話しておかなければならない相手だという奇妙な義務感、それは事務所の柵ではない。
しかし、現状のままでは会話をすることは出来ない。この状況を掌握しなければならない。泥から伝わってくる湿気は恐怖にすり替わっている。胃を握り潰されそうだ。
打開するには、倒してしまえば良い。話をするには――安心して尋問するには、力づくで拘束するしかないだろう。若林に背後からチロが組み付き、その間俺は春日を抑えればいい。若林を拘束するまで抑え込むことは充分可能な筈だ。そして、二人がかりで春日をも仕留める。体力、技術、負けることはない、勝てる筈だ。
それでも、絶対に敵わないと感じている。何故だ?
俺たちのファンなど一人も居ないだろう現場に先陣切って出て行く舞台袖、あの緊張感がある。
「おい俺は気持ちが悪」「気にしてんじゃねえよ」
春日の声が俺たちを蚊帳の外に追いやるようだった。若林は確実に春日に返答しているが、やはり声はほとんど聞こえない。
汚れたシャツにかかる襟足を見ている内に、声の小ささが作業に没頭しているからではないと気付いた。現状から目を逸らそうとしているからではない。別の事態に追われているのだ。
若林は一つ中味を掴み出す毎に、何か呟いている。耳を澄ませた。臓物のたてる水音の合間に、押し殺した囁きが聞こえる。
「うるせえ。うるせえうるせえ。黙れよ。今やってんだろうがよお」
若林は自分の耳を平手で打っている。顔を汚しているのは、春日の裾を染めているのと同じ、この腐汁なのだ。
春日のベストの染みに今一度目をやった。張られた胸に薄れているが、あれは若林の手形ではないのか?若林はあの胸を打ったのか?「黙れ」と。あそこに何か居るのか?
疑問の形で考えるのは認めたくないからだ。確実に居る、あの胸に何かが居る。
さっき春日は『仲間』だと言った。
逃げ出したい気がする。客席が冷めている時の、あの視線に曝されている。
不意にチロが俺を振り返った。躓きながら俺の影に隠れ、背後から告げた「ブンベツシテル」計りかねて聞き返そうとすると、金切り声を上げた「分別シテルンダヨ!」
目を凝らした。若林の手元だけでなく、地表全体を見渡すようにした。
既に大半は一体化しているものの、判別することができた。眼球、脳組織、肝臓、腸。それぞれが、一定の距離を置いて散らばっている。それは無作為な配置ではない。チロの言う通り、分別されているのだ。一人ずつ、一通り。
多勢に無勢なのだと気付いた。あの日、食い荒らされていた死骸、そして今まさに俺たちは立っている場所。あの胸から俺たちを見ているのは、春日の『仲間』。出ていこうとする俺たちを、決して笑ってやるまいと待ち構える、客席よりも冷たい楽屋のモニターの前。
「皆、母なる春日の胎内に回帰するというわけだな」
「お前母じゃねえだろ何で男が母なんだよおかしいだろ」
「はははは」
「これノータッチで」
臓物の主たちを胸に抱えて、春日は直立し、笑っている。
若林は耳だけでなく、目や額も殴りつけている。その度に濁った色の飛沫が顔の上に散っていく。春日を見ようとはせず、そしてカゴの中味を見ることもしない。投げ捨てられた空き缶が沈みもしないドブを双眸に満たしたまま、手先だけを動かしている。
春日だけがあの頃のままだ。板の上で見せる表情、オードリーの春日を受け入れることを強いる脅迫めいた笑顔で、仁王立ちで胸を張って、漫才をしようとしているのだ。
その様は、壁に向かって一心に芸をし続ける動物のような、腑が千切れそうな哀れさを誘うものだった。嗚咽が漏れそうになるのを、懸命に堪える。そうしなければ、余計な事を言ってしまいそうだったからだ。あの胸に居る連中の逆鱗に触れそうな何かを、口走ってしまいそうだった。
カゴの中味が減り、底が見えて来た。チロが袖を引いている。論理立てて思考する気力はとうに無かった。言われるまでもなく此処から去りたい。このまま留まれば、間違いなく俺たちも取り込まれる。そして臓物を若林に分別される羽目になる。
留まる理由なら幾らでもある、生き延びた人間としてしなければならないことだ。だが、それ故にここから逃げたいと思った。今ここで死ぬわけにはいかない。
不意に春日が発した「お前それ本気で言ってるのか」
後ずさった足音で、俺たちには聞き取れなかった。だが、春日の視線の先で、若林が何か言ったのだろう。それとも、何も言わなかったのかも知れない。何れにしても、春日には聞こえたのだ。
若林はカゴを携えてゆっくりと立ち上がり、囁くような声で「本気で言うほどお前のこと嫌いじゃねえよ」と残し、俺たちを、春日をも振り返ることなく、傾斜の下へ姿を消した。
顔を見合わせて笑った恰好の春日が一人残された。
勢いを付けるしかないと思った。チロを突き飛ばすようにして追い立て、来た道を駆け下りる。全力疾走しなければ逃げることは出来ない。臓物の山から、あの胸に居る者共から、そして、笑いの世界の亡霊から。俺よりも小さな歩幅でありながら先を行くチロが、泣いているように見えた。但し、はっきりとは見えなかった。俺もいつしか泣いていたからだ。