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・礼二の店
兄弟が暖簾をくぐると、カウンターの隅、いつもの定位置に絵師が
しかしいつもと違うのは、挨拶に顔も上げないことだ
・「つおしさん」弟、その場で声を掛ける「どないしたん?」
なおも返事がないことに、椅子を引いてやった兄も驚いた様子である
・礼二は鍋を振るいながら「放っといたげて」と告げる
しかし弟は絵師の隣に座り、顔を覗き込んだ
そして次の瞬間、目を見開いて兄と庄司を見遣る
その様子に驚いた兄と庄司、絵師を凝視する
泣いている
・銀縁眼鏡は丼の脇に置かれ、すっかり氷の溶けたお冷やのグラスを握ったまま、絵師は無言で涙を落としていた
「つおしさん。つおしさん。どないしたん?」弟は再び顔を覗き「いうてみ、いうたららくなるよ」
一分ほど後、絞り出すように「…猫が」と一言
「ねこ?どないしたん?」はっと顔を曇らせて「ようかん?!」
「羊羹ちゃう、あいつは元気や」
「したら、きぬさや?」首を振られて、さらに訊ねる「えびちり?しおこぶ?あぶらげ?」
「豆腐や」
「とーふ、どないしたん」
「しゅ…」涙に暮れる「腫瘍が…」
不安そうに兄を振り返る弟、兄咄嗟に顔が歪んでしまい、それを写したように弟も泣き出しそうになる
・白猫の豆腐が、不意に血を吐き出した
獣医に連れていくと、口の中に小さな腫瘍が出来ていたという
「明日、手術すんねん」
全身麻酔ではあるものの摘出は短時間で済むだろうということ、恐らくは悪性の物ではないこと
しかし、自責が主たる症状の病に罹患している絵師は、ひたすら己を責め続ける
「ずっと前からパリパリ食わんようになって、年のせいやろ思て、
何でもっと早うに気付いてやれなんだやろか、
24時間いっしょに居る猫の口の中にも気付けへんと…」
猫の口の中みたいもん見いひんて普通、という礼二の言葉も耳に入らない
「もう年や、全身麻酔耐えられるやどうやわかれへん
何ぞあったら俺の所為や」
・一通り話し終えると、絵師は再び涙に暮れるのみとなった
弟は目に涙をいっぱい溜めて、絵師の頭を何度も撫でた
持ち帰りの品が出来上がっても、兄は弟に声を掛けられなかった
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