・豆のスジを取っていたら電話だ。おでんを煮ている人が受けて「はい喫茶ピエール」その声はいつも「ほぅい」と聞こえる。
いつもゆるんだ顔をしているのが不意に引き締まって、それを声に出さないようにしながら前掛けを片手で器用に外している。「大丈夫か?どこだ?救急車呼ぶか?じゃあ上兄さんが行くから、そこで待ってろよ」スウェットのまま薄暮の中へ出ていく。軽トラのエンジンがかかって、すぐに遠ざかる。
こういうのはどのくらいぶりだろうかとあまり考えないように、豆を脇に避けておでんの火加減を見ながら、意味もなく冷蔵庫を開けて閉めた。
すぐ外せない形のエプロンは、店を護る気構えの証というような仰々しいものではない。大阪を去るときに貰った3枚をそのまま使っているだけだ。「ジブンこんなんの方が似合うで」と押しつけられた、アップリケの入ったもの。ホテルの白衣が似合わないと言ってしまっていることにあいつは気付いていなかった。そういう奴なのだ。
つまりそういうことなのだ、と再び冷蔵庫を開ける。適当に果物を取り出し、何か甘い物を作ろう。無意識のうちに何かが出来上がる。こういう時はいつもそうだ。つまり俺はこういうエプロンをして、厨房として区切られていないキッチンで何かを作って待つ。何かを待つ、誰かを待つ。いいことがあるのを待つ。無事に帰ってくるのを待つ。
携帯が一回鳴って切れた。保護すべき相手を保護し、大事ないという意味。煮上がったものをバットに流して、一息ついた。あとどれだけ、こういう日々が続くだろう。俺はいつまで待てるだろう。
豆のボウルを引き寄せて思い出した。「ジブンこんなん得意やもんな」そう言ってあいつは俺に倍ほどさせていた。俺は気付いていたがさせられていたのだ。実際得意で苦にならなかったからだ。
つまりそういうことか。俺はこんなんが得意なのだろう。最後のスジの一本を取ったときに、軽トラの音が聞こえた。そうなれば後はいつも通りの、夕食の時間だ。
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