彼が『兄さんも若い頃はいろいろやりたいことあったんだよ』と言ったのは、それを最後に聞いたのは何年前だったろうか。
ずっと彼のことを大人だと思っていた。自分よりずっと年寄りなのだと。
でもあの時の彼はまだ30代だったのではないか?彼はずいぶん早くから、いろんなことを諦めていたのだ。
彼には彼が期待する程の才能がなく、世間から期待されている分にもまた足りなかった。
彼にあったのは勇気だけで(奇しくも僕ら二人の弟には共通して備わっていない)、それは世界のあらゆる敗北者が『自分に彼ほどの勇気があれば』と羨むレベルのものだ。
だがそこには、情熱も知恵も誇りもない。ただむき出しの勇気でしかない。
裸に腰蓑、こん棒一本というような有様だったに違いない。だが彼はその勇気ひとつで(彼の言い方なら『勇気いっちょうで』)、あの日々を乗り切ってみせた。
どの日々だ?実際のところを僕らは見ていない。あの頃の彼にもう一つあったとすれば、それを僕らに見せまいとする気概だったろう。
彼は自堕落で無能な快楽主義者、所謂ダメな大人で、尊敬するところなど一つもないのだ。彼のせいで僕らは実際に酷い目に遭った。下の兄は恐らく僕以上に割を食わされた。
だがそうやって、一切を彼のせいにするということが可能なのは、彼が彼であるからに外ならない。ダメな大人の背を(そして腹を)見て育った。僕らにもまた責任がある。
何より僕らが思い到って愕然としたこと、それはあの日々の中で彼が僕らを憎んでいなかったということだ。
僕らは彼を、そして互いを憎んだ。口を聞かず目を合わさず、内心で罵っていた。だが彼は僕ら二人の弟を一度も詰らなかったし、疎むことも恨むこともなかった。
ダメな大人であるが故に、『俺のせい』という言葉をあっさりと飲み込んでいた。背負うわけでもなく、消化吸収してすぐに自らとしていた。
何も持たないから全てなげうつことができる。
“残り時間”も含め全てを失った時に初めて、彼の『勇気いっちょう』がどれだけ強靭なのかがわかったのだった。
昼食後、風呂上がり、そしてこんな明け方に、彼が箒を支えに立って、遠くを見ていることがある。たいていタバコは燃え尽きている。
慰めてほしいような気配では決してない(そもそも自分より強い者をいかにして慰め得るのか)。巨きな背中はただそこにある。そのたびに感じるのは、『敵わない』ということだ。
僕は彼から多くのものを奪って来た。そして償う術もない。ならばどうするか、といった考えを巡らすことすら意味を成さない。彼はただそこにあって、僕らはその背(そして腹を)を見て生きるしかないのだ。
弟という生き方も楽ではない。だが今は、その楽でなさを非常に面白いと感じている。