・『不謹慎』は各自の心の中から生まれる。
僕は今書きたいから書く。
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小林賢太郎は眉を顰めた。ラボの前に設えたテラスで白湯を片手に静かに頁を繰っていたというのに、遥か遠くから歩み寄る異様は明らかに招かれざる客だ。
黒の詰め襟に学帽、丸眼鏡、時台錯誤の黒いマント。あろう事か足元は下駄履きだった。
その姿を目にした事が無いわけではなかった。それ故に、苛立ちは一段と募った。
大声を出さずに済む距離まで待ち、敢えて不機嫌さを隠さずに言った。
「何故君が生きている?」
返って来た答えは彼を一段と荒ませた。 「初めまして」
軽く歯噛みした小林をよそに、左手で丸眼鏡を押し上げ続けた。
「僕は畠山健と言います。シンデレラというコンビで芸人をしていました。人力舎に所属していました」
「それは承知している。君は僕の質問に答えていない」
「お答え出来ないからです。僕は何故自分が生きて在るか未だ良く理解出来て居ないからです。僕からもお尋ねします、小林さんは今迄に其の質問を他の方にした事が有りますか」
小林は本を閉じ、勢いよく立ち上がった。
「あるとも。何度もね。だが尋ねた相手は誰であれ、その後さほど長生きしていない」
「ああ、失礼しました、言い直します。小林さんは、『こうなる前の世界で』其の質問を他の方にした事が有りますか」
「――どういう意味だ?」
「言葉が足りませんでした。重ね重ね失礼しました。こうなる前、テレビやラジオが存在し、僕達芸人がそうした場で芸人として生きていた頃に、小林さんは他の芸人や、スタッフや、身の回りの方に、其の質問を投げ掛けた事が有りますか。『何故君が生きているか』と。小林さんの意図する処は『何故“この世界で生きて在られる筈がない”君がこうして生きて在られるのか』というものでしょう。そう尋ねた事は有りますか」
項の毛が逆立つような不快感が加速している。右手の指を開き、時間をかけて握り込んだ。いつでも魔法を使えるように。
畠山は小林の目をまっすぐに見詰めている。おそらく伊達であろう丸眼鏡の奥は、全く表情を伺わせるものではなかった。しかし、暴れ疲れ魂を抜かれたようになっている大方の者、かつて小林がこの質問を投げ掛けた事がある者達とは異なっていた。瞳に確かな自我と知性の煌めきがある。
その目を一切動かすことなく、畠山は更に続けた。
「僕がこうして参じた理由の一つは此の点に有ります。どうして、世界は変わってしまったのですか」
「飛躍し過ぎだな。着いて行けない。何が言いたいんだ」
「生きる資格が有る」畠山はやや語調を強めた「或は、生存する事に何らかの資質を必要とする。此の世界はそうした世界でしょう。どうして其の様になってしまったのですか」
小林は一旦掌を開いた。吹き飛ばす事も溶かしてしまう事も容易い。ならば、急く事はない。その筈だ。この不気味な訪問者の話を聞き終えてからでも遅くはない。そう考え、小林は己が相手を『不気味だ』と認識している事に一抹の驚きを感じた。もう長らくそんな印象を抱いた事はない、何に対しても。
「どうしてそんな事を僕が知っていると思うんだ?知るわけがない。僕は神様じゃない」
「そうですか。小林さんは此の世界の事を何でも御存知だと聞いたものですから」
「誰から聞いたのかは知らないが、いくら何でも買い被り過ぎと言うものだよ」
吹き付けた風がマントを揺らした。隠れていた畠山の拳が一瞬露になった。長い指を丁寧に畳んだそれは傷だらけで、何であれ彼もまた闘いをくぐり抜けて来た事を物語っていた。
「でしたら、質問を替えます。笑いは何処へ行って仕舞ったのですか。他の人々はどうして居るのですか。何処で何をして居るのですか。どうして彼等は笑いへ回帰しないのですか」
小林は苦笑した。どいつもこいつも、群れる事しか考えられないのだろうか。そして、この世界で笑いに何が出来ると言うのか。
「その4つを僕が全て把握していたとしても、君に教える義理はない。初対面の君にね」
「義理は無くとも、教えたいとは思わないのですか」
小林は皮肉に歪めていた口を思わず開けていた。何を言われているのか、理解が出来なかった。
「知識は広める為に、公の益に成る様に行使する為に、下世話な言い方をするならば衒かす為に在るのではありませんか。それが学習して記憶した物であれ、知覚し体得した物であれ」
流石に知識をひけらかす事で飯を食っていた男だと、小林は再び苦笑した。しようとした。しかしそれが達成されていない事を感じていた。笑えない話だ。こいつのこれまでの人生の事ではない。今自分自身が笑えない立場に立たされようとしているのを実感しつつある。
小林は目を逸らした。理解し難い焦燥、魔法使いである自分が把握出来ない何かをこの男は持っている。
畠山は淡々と続けた。そうするようにプログラムされたロボットのようだ。自分の爪先と畠山の下駄の間のあたりに視線をさ迷わせながら小林はぼんやりと思った。
「僕が現在迄に収集した情報を統合すると、此は公正な表現では有りませんが、『より高度な笑い』を生み出して居た者程、特殊な能力を身に付けて在る様に考えられます。其れならば、そうです、最初に小林さんがお尋ねになった、何故僕が生きて在られるのか。
そして、其の様な人々が、何故本来日常生活の中で培い使役していた笑いを失い、過剰な暴力のみへと導かれて居るのか。
かつて此の国を、そして世界を、数々の災厄が襲った。其れでも人類は滅亡しなかった。必ず再生しました。笑いを失う事無く。あらゆる文化、文明と呼び得る事々を絶えさせる事は無かった。どんな規模で破壊し尽くされようと。其れが今回はどうして失われてしまったのですか。
或は此も規模に因る現象なのですか。此処まで破壊し尽くされると人類は笑いを失う物なのですか。其れならば何故、芸人と呼ばれていた者ばかりが生き残ったのですか。
更に、其れ等の状況を理解して居ながら、制止し得る力を持ちながら、何故小林さんは何も為さらないのですか。
貴方の力は、極く特殊な笑いを一から生み出していた事に由来しているのだと僕は考えます。無から有を生み出す、其れを魔法と呼んで居られるのでしょう。望んだ事は全て具現化し得る。火球を生み出す事も、人間の内臓を溶解させる事も可能だ。
其の力を何故破壊の為だけで無く、創造の目的に行使為さらないのですか」
畠山が息をついたのを聞き、小林はようやく苦笑した。ロボットではないのか。しかしその笑みは明らかに自嘲だった。この大演説を聞き終えてもなお、この男の正体が掴めない。目障りなのだから消してしまえば良い、その決心が着かなかった。
溜息と共に視線を合わせると、畠山はそれを待っていたように、言葉を発した。
「あの方をお護りになる為ですか」
目を見開いた自分が、丸眼鏡に反射した。
「然しながら、あの方は」
小林は即座に理解した。この異常な焦燥の根源を、この男の正体を。こいつは、全てを知っている!
咄嗟に右手から魔法を繰り出した。胴体に命中すれば飛距離が出るより先に爆散する筈の威力を込めたつもりだった。
しかし小林は襟首を掴み上げられている己に気付いた。自分よりも背の低い男に、片腕一本で、爪先立ちになる程に引き上げられている。息の苦しさよりも事態そのものに驚愕し、次弾を放つどころか自分が魔法使いだと言うことすら意識の外へ弾き出されていた。
畠山は空いている方の手でマントの裾を手繰り寄せ、炎を握り潰して消した。そして小林の顔の真正面、15センチと離れていないところから、先程までと変わらぬ無表情で告げた。
「今、内臓や脳を直接に狙われて居たなら、僕は死んでいたでしょう。然しながら貴方はそう為さらなかった。其の意図は僕には理解出来ませんが、結果的にはこうして僕の肉体の潜在能力が上回った。貴方の肉体は“魔法”が無ければ十人並みです。僕は世界が此の様に成ってからも一日も欠かさず鍛練を続けて来ました。
小林さん。破壊された物をそっくり再生する事は不可能です。貴方も身を以て御承知の様に。然しながら、新たに創造し直す事は可能だ。人類は常に、あらゆる事象を、知を以てそうして来たのではありませんか。僕は貴方に御尽力頂きたい。御自身と片桐さんの為だけでなく、笑いの、世界の再生の為に。諦めるのでは無く、働いて頂きたい。
僕は人類の叡知を信じて居ます。知性こそが人類の証です。知性こそが力です。ですから僕はこうして生きている。其れが貴方の最初の質問への解答です」
体全体を使うようにして腕を振りほどくと、畠山はマントを翻して駆け出した。現れた時とは対照的に、挨拶の一つもない無礼さだった。荒野を下駄が疾走して行く。それを助走として飛び上がりそうですらあったが、そのまま駆け続け、後ろ姿は見る間に小さくなって行った。
だが、目視できる対象ならば充分に魔法は届く。直接内臓か脳を狙えばそれで済むことだ。
それでも、小林は魔法を使わなかった。発動し得なかった。『破壊の為に行使する』ことが出来なかった。
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