・大破壊後を知らないひとは過去ログを読むといいです。そうです。
・おたんじょうびらしいので かくました。おめでとごじます。なんさいですか。さて。
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寝台の上の岡田の寝息は安らかだったが、その胸の安定した動きだけを一瞥して増田は目を逸らした。
逆さにしたビールケースに腰を下ろし、貸し与えられたジャージの袖を折り返す。誰が遺したものなのかは気になったが、一々尋ねる気にはならなかった。他にも知りたい事は山ほどあるが、総てを言葉にする力がない。肉体的にも、精神的にも。
それでも岡田の寝息を黙って聞いているのも辛かった。何故辛いのかは自分でも解らない。口をついて出たのは不躾な問いで、それを口にしたことも自分では理解し難かった。
「あいつの足のことは聞いてええの」
菅は気にする様子もない、むしろ場違いな程の
笑顔で応じた。
「ボクが斬りましてン」
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まだ此処に大勢が集っていた頃だ。最大は何人だったか。25人?28人?よく思い出せない。
誰かが眼鏡を調達して来てくれた直後だったのは記憶していた。これを守ろうと顔の前に手を翳したからだ。あの瞬間、“顔”を守ろうとしたのではないことを後に釈明しようとした。だが、事態の全貌が明らかになった時には、釈明する相手が居なくなっていたのだった。
「隣の地上部分がワッサー崩れて来ましてね」凄惨な記憶とは裏腹に、口調と表情は明るく保つ「マトモにガッシャーンですわ。まだ機材とか柱とかクルマなんかもようけありましたよって」
宇治原が瓦礫に脚を挟まれた。個々の俊敏さを活かす暇もなかったのだ。
宇治原の傍らには他にも数人が居た。その姿は菅には『折り畳まれた』と映った。
「ガソリンがダーッとね。こらアカン思いまして。ボクみたいモンこの細腕でしょ、他にどないもこないも」
動転している菅に指示を出したのは宇治原本人だった。苦痛の中でも人の関節の構造を説明し、刃の入れ方すら的確に明示した。菅には応じるしかなかった。腱を断ち切る感触が今でも手に残っている。
「ようよう引きずり出しましてね。で背負って外出たらドカンですもん。死ぬかと思たてあのコトですねェ」
全てを口にする必要はないと思った。尋ねた当人は恥じ入るような顔で俯いている。声に出した分で充分な筈だ。
あの場で断ち切ったのは片足だけ、残った側も忽ち壊疽が始まり、それはこの寝台の上で切った。その時にはある程度の麻酔をかけてやれた。だから現在の宇治原の脚の長さに差があり、傷の形も違うと言う事までを語る必要はない。
「おかげさんでボクはかすり傷で済んだンですけど、まあ命拾いしましたわ、お互いに」
―――
何故こんな事を尋ねたのだろうと増田は再度自問した。相方の腕を目の前でもがれた者として、それを防ぎ得なかった者として、何故こんな事を語らせてしまったのだろう。努めて明るく振る舞っているが、菅の心中は察して余りある。謝罪を口にすることも出来ず、増田はただうなだれていた。
「その背中のでか?」
濱口がそう聞くまで、増田はそれに気付かなかった。小柄な体のほとんどを覆う白衣の中を気にしたこともなかった。
菅は白い歯をきらめかせて笑い「よゥ気付かはりますねェ」とそれを取り出した。
錦糸の鞘袋から軽やかな手つきで刀身を引き抜く。小太刀と呼ばれるものだろう。真新しい輝きに、増田は時代劇で使われる模造品を連想した。
「コレはちゃいますネン。どっかで誰かが拾てきたんです、骨董品屋かどっかのちゃいますかネ?一応ホンマモンらしいですけど、まだ使てません。ま、お守りみたいなモンですワ。あん時使たんはそこらに転がってた包丁やった思います。まだあん時は包丁使て料理してましたから。ドサクサでハッキリ覚えてませんけど」
取り出した時と同じ素早さで菅は得物を背中に戻した。増田はそれを最後まで見なかった。相方の足を包丁で切り落とす姿を思い描いてしまう事が恐ろしく、膝の上の拳が震えているのを黙って見つめていた。
―――
大気の汚染や地殻の変動から人体の組織まで、収集し得るあらゆるデータを24時間体制で管理している。自分は分析、他の雑務は相方、交代で眠る。
その常態が、濱口らの来訪で大きく乱されている。この数日まとまった睡眠時間が取れていない。
仲間が増えるのは有り難い。こんな状況下で『まともに動ける』相手なら尚更だ。ただ、その分考える事も増える。宇治原は目頭を軽く押さえた。考えても解らない事が多過ぎる。
だとしても、今の自分に出来ることはデータを集め考える事だけだ。何しろ上半身しか残されていないのだから。動かせるのは両腕と頭だけ。座ったままの頭脳労働。
異変の前と同じやな、と宇治原は自嘲した。
―――
引っ切りなしに用紙を吐き出し続けるプリンターと、鈍い稼動音を響かせる機器に囲まれて白衣の背中がある。
無防備だ。足の有り無しに関わらず。
如何様にも出来る、と藤井は思った。このまま背後から頚を絞めるか、後頭部を殴りつけるか。或いは振り返られたとしても、痩せた上半身から録な反撃はあるまい。車椅子を倒してしまえば、それで終わりだ。
菅にしても同じだろう。五体満足ではあるが、戦う力はない。本人もそう明言した。
菅のことだから武器の一つや二つ隠し持っているだろうが、問題にはならない。昔から、闇を湛えた暗い目を笑みの形にする事で隠していた、今もそれは変わっていない。本質は見えていない所にある。倒せばそれが露になるだろう。
あらゆる殺し方を想定して、不意に藤井は我が身の内の声に気付いた。
――何で殺さなあかんの?
田中の哀願を思い返すまでもなかった。事の起こりからずっと、その声は聞こえていた。何故殺さなければならないのか。何故強くなければならないのか。
それに抗い続けてきたのだ。そうしなければ生き残れなかったからだ。敵はあらゆる所から襲い掛かって来た。生き残った者の勤めとして、生き残らなければならなかった。
違う、と再び声がした。僕は自ら殺した。逃げる者を追って、無防備な者を捩伏せ、殺し得る者を探して殺さんとした。今もだ。
濱口を見て震えたのは、倒せば強くなれると思ったからだ。そうしていないのは、今は不可能だと感じたからだ。
それだけか?なら、何故田中に手をかけないのか。あれだけ無力なら、小枝を手折るよりたやすく殺せる。気力が萎えている増田も同じことだ。いつでも命を奪える。そして僕は強くなれる。
どうして?殺せば強くなれる?強いから殺せる?強くなって何になる?
生き残る為だ。強くなければ生き残れない。生き残ったのだから、強くなければ…
渦を巻くような自問自答を、口笛と足音が遮った。
「藤井サンも休まはったらどないです?」
見上げる笑顔もまた無防備そのものだった。その目にかつての闇はない。
込み上げる何かを押し止めようとして、藤井は小さく呻いた。その音が藤井には泣き声に聞こえた。もう長らく聞いていない己の嗚咽に聞こえた。
―――
「なァ、気付いた?さっき」
「何?」敢えてぞんざいに応えてはぐらかすと、「あコレ分析出たんや、やっぱヒドイもんやな、恐ろしモンやな」とはぐらかし返された。
互いに理解している。俺が同音異義語に疎くない事を。
この小さな相方は、何があろうと必ず俺を護るだろう。例えその手を汚すことになったとしても、自らの身を呈してでも。
俺はそれを信じて背中を預ける。異変の前と何ら変わりはしない。俺は菅を信じて託された仕事、座ったままの頭脳労働に励むだけだ。
―――
異能はなくとも、あの殺気に気付いていない筈はない。宇治原は藤井を試したのだ、と菅は思った。
仲間の中にも脅威はある。今までもそうだったように。人間で有る限り、誰でもが呑まれ得る。そういう世界になったのだ。
藤井だけではない。データを見る限り、岡田が正気に戻る確率は低いだろう。増田もいつ何を仕出かすかわからない。福田もその連れも、充分に我が身の脅威に該当する。
しかし、何があろうと必ず宇治原の事は護る。
内心に堅く誓いを新たにし、菅は背に隠した鞘に密かに手をやった。
これが本当に意味するところは誰も知らない。宇治原でさえも知らないのだ。
一心同体。
俺は死ぬわけにいかない、宇治原を死なせるわけにはいかないのだ。
悸きを笑みで押さえると、それは正しく笑い声となって零れた。
これでいい。全てをこの笑顔で隠し通せば、生きて行ける。
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