・いつもの河原。
辺りには焼き林檎の甘い香りが漂っている。
グラウンドでは草野球、ジュンサーズは既に半分ほどが宵昂園の面々に乗っとられつつある。
相手チームの夜学はこの春に主要メンバーが卒業したこともあり、戦力はかなり落ちた様子。
従って対戦のバランスは取れ、なかなかの好ゲームが展開している。
それをスケッチしていた絵師は手を止め、ゆっくりと川面に視線を移した。
傍らに座る「野球を見たくない日」の不動産屋にはその仕種の意味がよく解った。
楽しげな現実が眩しいのだ。強すぎる光に曝されると視界を失うように。暗闇に生きることを余儀なくされる病、と絵師が形容したことがある。その魔物じみた立場を思い知る瞬間だ。
しばし並んで無言のまま流れを目で追う。彼岸花の赤は不思議と鮮やかには見えない。
不意に絵師が鉛筆の尻を使って地面に二本の線を引いた。
「過去から、今や」
不動産屋はそれを即座に理解した。極めて単純な時系列。
絵師はその二本の間に、大小の黒く塗り潰した円を配置していった。
「まあ、いろいろあるわな」
その意もまた、不動産屋は理解した。『いろいろあった』のだ。大小のさまざまに、黒く塗り潰された事々が。
「そいでな、こうやとするやろ」
その黒い円の間に、白い円が描かれた。
そして絵師は顔を上げ、再びグラウンドの方を見遣った。
「ここにな、留まってられへんもんかなあ」
視線は動かさぬまま、白い円を軽く幾度か叩いた。そして、その白い円の両端に縦に線を引いた。白は周囲の黒から、切り離された恰好になった。
「ここだけでな、居られたらな、楽やのにな」
視線は遠いままだ。決して本気ではあるまい。時系列を逆行して一定の過去に留まるというのは、現在の科学では不可能な話だ。
だが、精神の中でならそれは充分に可能なのだ。自分を英雄だと思って過ごすことも、新大陸に国家を築くことも、ただ己の精神の中であれば可能なのだ。
彼らはそれを知っていて、だからこそ『踏み止まって来た』。実弟や親友の存在も大きい。本格的にそちら側へ腰を据えてしまうと、戻ってくることは難しい――近しい彼らには会えなくなるだろう。
それでも、今回の提案は魅力的ではあった。夢物語ではなく、己が確かに経験した美しい過去。それならば、今こことの繋がりが途切れるわけではない。同じ時系列に存在しているのだから。
不動産屋もまた、自分の中の『白い円』を探し始めた。戻るとするなら、あの頃か。俺も、相棒も、あの頃は笑っていた。今よりもずっと自然に、よく笑っていた。
その呆けたような時間は金属音で破られた。
土手の上から飛び降りて来た男が目の前に立っていた。“缶ぽっくり”を履いた、もじゃもじゃと呼ばれている男。
「のねェーそれ危ないんだぜ?トンネル!ほらここトンネル!」
爪先で示すのは円を挟む二本の線、言われて見れば成程それは確かに過去から現在へのトンネルであった。
「それいいなーって思うんだろうけれども非常に危険が危ないなのである。俺超いいやつだから教えてやろわいよ。あのね」
右足を強く踏み出した。缶の底で『現在』の手前が踏みにじられる。
「落盤!らっく ばーん!こわいだろう酸欠!酸素のケツと書いて酸欠!死んじゃうよマデジ。あちがうマジで」
絵師はトンネルから目を離さなかった。白い円と現在。その間は確かに落盤で塞がれた。“もし今白い円のところに居たら”。
「『今』から酸素取り込んでんの過去!ずーっと過去まで空気入れ換えてんの今の俺!今のお前!お前!ね?」
二人を交互に指差し、もじゃもじゃは話に飽きたように踵を返した「俺もベイスボーーール入れてもらお」そしてしたたかに転び、それでも缶ぽっくりに乗り直して再び駆け出した。
残された二人は、トンネルから目を離すことができずにいた。
容赦ない落盤の足跡は、紛れも無く「今」へ、兄や弟や巡査やまさるが躍動しているグラウンドへと続いている。足跡を追っていくことで、自ずと視線はそちらへ向いた。
絵師は鉛筆の尻から砂を払い、スケッチブックを開いた。
「あかんか、やっぱり」
力無く、だが微かに悪戯な笑みがあった。
―――――
一部始終を見下ろしていたトンビの男は、火加減を見ながら吐き捨てるように呟いた
「何だ…“あいつ”、ちゃんとわかっているんじゃないか」
「彼は全て承知の上さ」
背後からの声にトンビの男は舌打ちをした。
「立ち聞きとは趣味が悪い」
「お互い様だよ」
白い男はグラウンドには目もくれず、川の奥底を見通すようにして言った
「“彼”は全て理解しているんだ――あのトンネルの中で、幾度となく死んでいるんだからね」
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